捏造を防ぐシステムは可能か?

 最近のデータ捏造が連発する状況に対しての防止策の議論が始まった。データ捏造はよそさまから頂いた研究費(多くは国費)をつかって嘘をでっち上げて世間をだます行為なのでスポンサーに対する詐欺行為であり、同業者に対してはルール違反だ。peer reviewシステムは多くの専門家のボランティア活動によって支えられているが、その根底をなす研究者に対する信頼を裏切った罪は重大だ。嘘のデータにもとづいた研究に対して企業からの援助を受けていたとしたら株主に対する詐欺行為とも言える。しかし嘘と断定できるケースは簡単だが多くの場合嘘と真実の境界が明らかではないケースが多い。これは科学研究とは広大なグレーゾーンの中を真実を求めてさまよう行為だからだ。
 ここでは捏造行為を取り締まる組織を作れ、との意見にたいして、別のやり方がありうることを考えてみる。

白黒か灰色か?

 東京大学多比良和誠教授らへの疑惑は、本人も含めて誰も再現できない研究結果を発表した、という結論がでた。しかし生のデータがほとんど(まったく?)ないという状況にもかかわらず「彼らが捏造した」とする積極的な証拠はなく今回の報告を「灰色」と評する声も多い*1。「再現性はこれまで得られていない、しかしこれをもって多比良教授と川崎助手がかつて実験に成功したかもしれない、という可能性を排除できない」ということで、これは大学側での調査に基づく範囲では科学的には妥当な結論だと思う。

 一方で黄禹錫教授らのヒトES細胞にまつわる疑惑に対して「捏造」と断定した韓国ソウル大学の対応を「果断」と賞賛する向きがあるがこれらのケースを単純に比較することには無理がある。嘘だと断定できるケースと、嘘だとも本当だとも言えないケースとがあるからだ。この点を整理するために科学論文を3つのタイプに整理してみる。

発見のかたち

1.物の発見:物証による検証
 新しい彗星、生物種、遺伝子、化石、などの発見。これらの場合は発見された「物」自体が証拠になるので証拠の提供さえあれば真偽の検証は比較的容易だ。

2.方法の発見:追試による検証
 PCR法の開発、トランジスタの開発、など新技術の発明は産業に直接結びつく。インパクトが大きければ大きいほどすぐに多くの人々により追試が行われ、再現性の確認がなされる。

 今回の体細胞クローンES細胞の作成技術の報告では研究材料と研究の許可自体に制限が多く追試できる研究者が限られていた。しかし研究が成功したことの証拠であるES細胞のDNAを調べることで虚偽の明確な証明が可能だった。

 追試の重要性を示す例をあげる。Fleischmann−Ponsによって報告された、常温で核融合が起きて新しいエネルギー生産方法につながるという報告http://mext-atm.jst.go.jp/atomica/07050402_1.htmlは全世界の話題をまいたが各国で行われた追試で再現性が確認されず否定的な見解で落ち着いている。これは世界規模での検証実験が直ちに行われることで研究成果の正当性が確認されるシステムが健全に機能していることを示している。重要なことはFleischmann−Ponsの結果は支持を受けなかったが、彼らが結果を捏造したとの表だった指弾はないことだ。結果として間違っていたかもしれないがあのような研究発表は科学の進歩の中ではあり得ることで追試の嵐の中で淘汰されたということだ。

3.概念の発見:時代による検証
 科学研究で最も先見性を示せるのが新しいコンセプトの発見(提唱)だ。アインシュタインをはじめとする理論家達の業績は皆これに相当する。彼らの論文は新しい考え方を述べ、それに基づけば起こるであろう現象を予測し、実験家に「証明してみろ」と挑戦する。彼らの成果が20世紀の科学をリードしたことは言うまでもない。しかし真価の判定が最も微妙なのがこのケースだ。実験によって確認されて後世に残った仕事は良いがおそらく認められず忘れ去られた研究も多い。

 生物学でも概念的な仕事は認められるまで時間がかかる。進化論が最も良い例だ。またWatson-CrickによるDNAの二重らせん構造も発表当初はモデル、として提案された。競争相手のPaulingは別の構造を考えていたのだから間違った構造モデルが提案されていた可能性も大いにあったのだ。Watson-Crickのモデルが受け入れられたのはDNAの複製、RNAの合成などの実験データをとてもうまく説明できたからで多方面からの検証に耐えたからこそ不動の地位を確保できたのだ。
 
 仮にWatson-Crickが間違ったモデルを出していたとしても、その結果は見過ごされさえすれ罪を問われることなどはあり得ない。広大な科学のフロンティアに現れては消える膨大な数の仮説のひとつにすぎなかっただろう。

発見の検証

 ここまで整理したとおりに研究報告の真偽を直接的な物証にもとづいて検証できるケースはそれほど多くはない。研究の価値は数多くの追試に耐えるか、もっと長い時間の検証を経て真価が定まる。その過程で無数の仕事がふるい落とされていくわけだが、それらは正しい仮説に行き着くまでの必要なプロセスであって決して無駄な仕事ではなく知の体系の裾野を支えるという点で価値があるのだ。

では私たちはどうすれば良いのか

 捏造を取り締まれ!という意見に対して捜査機関のような物をイメージされては困る。最近六本木ヒルズで起こったようにある日研究室に東京地検が乗り込んで・・・といったことは想像もしたくないからだ。いくら取り締まっても捏造行為の発生を完全に抑えることはできないだろう。科学のグレーな部分で明解な解答を出すべく日夜努力している研究者が今のサイエンスを支えている。彼らがしっかりとしたアイデアを世に問うことを妨げるようなことがあってはいけない。

 私が思うには科学者の間での自浄作用が有効に働くためには以下の二点が守られていれば良いと考える。

1.研究データを保存して外部に提供できること
 第三者の検証に耐える資料を残していさえすれば偽造行為があったか否かは判定できる。研究室内でも結果を確認しあったり引き継ぎのためには当然のことだ。追試を行うよその研究者にすべての材料と情報を提供することは義務と心得なくてはいけない。この点で多比良教授と川崎助手はすでに失格で、捏造か否かの以前に実験データを残さなかったことで非難されるべきだ。
2.世に出たばかりの成果をあわてて真実として受け入れないこと
 どんな立派なジャーナルに出たとしても発表したての論文はこれから外部の検証を受けるための素材が公開された、という以上の扱いはしなくともよい。今回の日韓での捏造騒動は発表された成果の検証が落ち着く前に過大な投資が行われて、期待に応えるために更に捏造を繰り返すというネガティブスパイラルに陥ってしまったように思う。研究者の評価はその人の研究歴に対して行うべきだとおもう。年月を踏むとこの人の仕事は安心だ、あの人は危ない、といった評価は定まる物だからだ。

 正しい検証プロセスさえ踏まれていれば捏造行為は直ちに見破られるか無視され、後世に禍根を残すことはないだろう。

 

 

*1:記録が全くない状況だったらしいから捏造を証明しろといっても無理な話だ