博士の愛した数式

 を読んだのに引き続き映画を見てきた。とても丁寧につくられていて、それぞれの人物が不幸な影を背負っていながら軽々と活きている所が良い、しかし注意深く見るととても印象深いシーンや一言がちりばめられている。80分しか記憶が維持できない脳の障害をこ負った数学者が主人公だ。この大変なハンディをもった「博士」を飄々と演じる寺尾聡が良い。今夜の夕刊(日経)に彼の短いインタビューが掲載されていた。「わかりやすすぎる作品ばかりが目につく」と指摘する彼はさりげない仕草やせりふで後からじわじわ来る余韻を与えてくれる。

 何でもないせりふで私がぐっと来たのは終盤のシーンで家政婦の息子「ルート」の誕生日を祝うシーンで博士がルートの名前を聞き直す。80分は持っていた記憶の保持が短くなり子供の名前を忘れてしまったのだろう。それまでは博士は自分が80分前以上の記憶を失った事実を思い知ると愕然として落ち込んだ。原作では彼の症状が悪化する経過がやや悲観的に描かれていたのだが映画ではこの重い経過がお節介な説明なしで博士のあっさりした一言のみで表現されている。簡潔を心がけることで印象深い効果を生むことができたのだと思う。

 家政婦役を務める深津絵里もシングルマザーの重い現実を表に出さないでひたむきに働く、所帯じみない姿が良かった。まだ30過ぎだがもう少し年を重ねればもっと良い役者になれるだろう。

 突出していたのは浅岡ルリ子が演じる博士の兄嫁の未亡人。原作では描かれていない未亡人の側からの博士が語られる。交通事故によって80分しか記憶が持たない症状になってしまった博士の説明をするとき彼女は、博士にとっての未亡人の存在は事故に遭う直前のままで停止している、と語る。博士の心が自分と愛し合っていた最高の時期の新鮮な気持ちのままでいてくれて、自分の保護のもとで暮らし続けることは未亡人にとってこの上ない幸福かもしれない。しかし彼の心は変わらないのに自分だけが年齢を重ねていくことは恐怖でもある。そのような二面性を持った女性を演じるために浅岡ルリ子が選ばれたのだろう。しかし私にわからないのは未亡人が家政婦に命じた「博士が暮らす離れで生ずるトラブルは決して母屋に持ち込まないこと」という指示だ。未亡人は博士の保護者でありながら直接関わり合うことを避けることでおいていく自分が博士の目に触れることを避けたかったのだろうか?それでいて母屋から離れを監視するように観察を続ける姿に計り知れない物を感じる。男の私にはわからないのだろうか?女ならわかるのだろうか?

 映画を見て2日経つが思い返していろいろなことを考えさせてくれる作品だ。一緒に行った息子は数字マニアになって友愛数220と248は若松選手の盗塁数(??)と山田久志投手の勝利数だなどをいって喜んでいる。数字に感心を持つのは悪いことではないが・・。