Bad Blood

2018 6 18にFBに投稿した記事。現実と妄想の境界がなくなった人の話

黒い衣装の若い経営者が低い声で真っ赤な嘘を吐く
注射針を静脈に差し込んで何回も採血する血液検査は痛くて、針に対する恐怖心を引き起こす。注射針が嫌いな野心家の学生が始めた血液検査法は指先からの微量の採血で多項目の検査を行う技術を標榜し、「痛くない血液検査」を売りにしたスタートアップ企業となった。このアイデアを持ったエリザベス・ホルムスはスタンフォード大学の工学部に入学後に大学をドロップアウトして若干20才で会社を興し、彼女の会社Theranosは出資者を集めてシリコンバレーで注目を浴びるバイオベンチャー企業としてのし上がった。アドバイザーにはヘンリー・キッシンジャーウィリアム・J・ペリージョージ・シュルツなど歴代政権の大物政治家や陸軍の重鎮ジェームス・マチスなどそうそうたる顔ぶれを集め、莫大な出資を得て血液検査技術の開発を進めた。
 Theranosの基幹技術は従来よりも微量の血液で多数の検査を行う検査機の開発を標榜していた。しかしその実体は当初の微小流路を用いた方法に失敗し、小型ロボットに移行したものの問題が山積し、結局ドイツ企業シーメンスから購入した既製品の検査機器を使っての検査に頼らざるを得なかった。しかしこの実体は企業秘密として隠蔽され、出資者と顧客にはあくまで新規の検査技術を謳っていた。正式な科学技術の訓練を受ける前に大学をドロップアウトした学生には基幹となる技術を生み出す技術と能力など最初から備わっていなかったのだ。
 ホルムスには人を魅了して信じさせる魅力があったとされる。その秘密は女性にしては並外れた低音のボイス、まばたきせずに相手をじっと見つめる瞳、そしてステーブ・ジョブスを真似た黒ずくめの衣装。これだけで百戦錬磨の政治家や企業経営者が騙されるとは信じ難いのだが実際彼女が話す現場では一瞬にして耳目を集めさせるカリスマがあったというのだ。ある日の役員会で彼女の運営が問題視されCEOを退任させるという動議が出された事がある。そこに乗り込んだホルムスは年上の役員たちを説得して動議を撤回させた。一体どのような力を持って場の雰囲気を変えたのだろうか?彼女のTEDトークをみてもよくわからないのだが、有名大学からドロップアウトした事を逆手に取り、Bill GatesやMark Zackerbergにみ立ててはやし立てたメディアの後押しや、聴衆の期待が彼女をカリスマに仕立て上げたのだろう。人を説得する事に関して類いまれな能力を持っていたようだが、根拠のない確信は周囲を振り回して大惨事を引き起こした。
 Theranosの運営に危惧を抱く人も多くいた。陸軍の軍医はTheranosの提案を検討を技術的な根拠が乏しいと見切ったが、その上司だったジェームス・マチスはそれでもTheranosの役員を務めた。Theranosの検査担当者だったタイラー・シュルツは検査の不正確さと広報の嘘を危惧し、退職してから祖父であるジョージ・シュルツレーガン政権の国務長官)に警告を発した。しかしジョージは聞く耳を持たずホルムスを支持し続けた。専門家の意見に耳を貸さずに騙され続ける人たちはどこにでもいるものだ。
 もう一つ不思議なのは彼女自身がTheranosの技術を信じていたのかと言う事だ。さまざまな隠蔽工作を指示していた事から世間に知られてはまずい事をしているという認識がホルムスにはあった。彼女は自分の抱いた夢を見続けて、それが実現されない現実から目を背けて、嘘と真の区別がつかないままに自信たっぷりの演説を続けたのだろう。自分には信じられない話だがそう言う人はいるものだ。アメリカンドリームの負の側面が表れた事件だった。徹頭徹尾嘘で固めた人物があそこまでのし上がる事を許したアメリカの風土、大衆、メディア、経営者たちを分析する事で有用な教訓を与える一冊。Audibleでコンプリート。