揺るぎない信念

 この学会はドイツのChristiane Nusslein-Volhard の講演で始まった。彼女は1995年のノーベル医学・生理学賞をショウジョウバエの発生遺伝学の研究で受賞したことで知られる。
http://nobelprize.org/medicine/laureates/1995/nusslein-volhard-autobio.html


 講演に先立って彼女の経歴が細かく紹介された。驚いたことに彼女は学位を取るまでは生化学を専攻しており発生学や遺伝学の訓練は受けていなかったことだ。学位取得後の将来を考えているときに、パターン形成を決める仕組みとしての「モルフォゲン」の考えに触れ、その活性の同定には細胞質の移植実験ができること、原因物質(遺伝子)の同定には遺伝学が活用できること、の二つの条件を考慮してショウジョウバエを実験材料に選んだという。


モルフォゲンの定義は、
1)形態形成の場において濃度(もしくは活性)の勾配を形成すること。
2)その濃度(もしくは活性)に応じて細胞の性質(分化、形態)を決定すること。
 を満たすことで。そもそもこんな便利な分子があれば形態形成をシンプルに説明ができる、という期待の元に考え出された仮想分子である。


 モルフォゲンの同定には遺伝学が、活性の証明には移植実験が有効であるという理由だったのだろう。


しかし移植実験を試みたポスドク時代の研究はあまり華々しい成果には至らなかったらしい。そこでEMBLの研究所に移ってから第二のアプローチ、突然変異体のスクリーニング、に取り組んだ。その後の彼女のショウジョウバエでの研究は大きく分けて3つのステージに分けられる。

1)受精後に転写されて外部形態を制御する遺伝子 (zygotic gene) のスクリーニング。まずショウジョウバエの3本ある主要な染色体のうちの第二染色体について胚成致死になる変異体を調べてGap, pair rule, segment polarityの三つのクラスに分けられることを示した。これらのクラスは分節化が階層性持って段階的に進行することを示唆した。その後彼らは第一、第三染色体についても同様なスクリーンを行い形態形成遺伝子のカタログを作った。これは現代知られている多くの形態遺伝子が含まれているという意味で重要なものだ。この後のショウジョウバエ発生遺伝学は「彼らの」遺伝子をクローニングすることで飛躍的に進歩した。

2)引き続いてNusslein-Volhardは受精前の卵に存在する母性遺伝子(maternal gene)の機能に着目し再び大規模な、スクリーニングを敢行し、anterior group, posterior group, terminal groupに分けられる一連の遺伝子を同定した。

3) anterior groupの遺伝子の機能を細胞質移植の方法を用いて解析し、bicoidがそのカスケードの頂点に位置していると推定した。bicoid蛋白質は卵の前後軸にそって濃度勾配を形成し、その勾配を遺伝子量(すなわち蛋白質量)を変化させることによって前後軸にそった形態を変化させることができた。従ってbikoid蛋白質はモルフォゲンの定義を満たす最初の分子として認められたことになる。私はこの話を留学中に聞いたのだがその重要性については何年かたってから、じわじわと実感するようになった(我ながら反応が遅いと思う)。


今回Nusslein-Volhard自身の口から一連の話を聞いて思ったことが二点ある。


1)zygotic geneのスクリーニング、これ自身偉大な成果ではあるが彼女はその時点でこれらの遺伝子の機能には眼もくれずmaternal geneの同定に邁進した。生化学者のバックグラウンドがあるなら分子機能の解析に入るのは自然なことだと思うのだがおそらくその時点で彼女は過去のバックグラウンドは捨て去って筋金入りの発生遺伝学者になりきっていたのだろう。

2)bicoidにねらいを定めてからはすぐさま分子生物学的手法を駆使してモルフォゲンであることの証明をすませた。真の標的を捕まえるまではよけいなことをしない、ということだったのだろう。


重要な課題に対する方針を決めたら軸足がぶれることなく進む。これが彼女から見習うべき点だと思う。

私は研究者はその生まれ育ち(すなわち学位を取るまでの教育・訓練)で定まった方向性を超えることは難しい、と考えていた。しかしNusslein-Volhardの例は信念さえあればそんな足かせはいとも簡単に超えることができることを示している。