Logic of life

 今日の論文セミナーでUさんが話の導入としてSydney Brenner (http://www.molsci.org/~sbrenner/) の講演を紹介してくれた。彼は今や現役を引退して学会の講演では科学の現状を批判的に評する漫談風の講演が人気を呼んでいる(私には退屈なのだが・・・)。ともあれ分子生物学勃興期の先駆者であり線虫を遺伝学のモデル生物に仕立てて、フグをゲノム解析の土俵に引き出したゲノム生物学の旗振り役のBrennerである。これからは又聞きなのでBrennerの本意とは違うかもしれないが私が受けとめた彼の批評は、「ゲノム配列の解読が済んだ今、皆がこぞってやっている遺伝子のアノテーションはやめてしまえ、生命の理解の仕方には別の方法があるのではないか?」ということらしい。
 私が思うにおそらくBrennerの批判の根本は、生命の本質を人間の(英語の)言葉で説明できると信じ込むことの危うさを指しているのではなかろうか?生命はDNAに刻まれた言語を進化させ現在に至った。我々が脳の中で作り上げた言語の体型の枠組みでとらえることが適当なのだろうか、というのが疑問だ。


 物理学者は光は波であり、同時に粒子であるという。生物学者はこの話をお話としては知っているが研究の現場で意識することはない。雄は網膜に入射した雌の姿を示す光の像が波であれ粒子であれ反応して求愛することには変わりないからだ。しかし目の前で起きている現象が日常感覚を超えた二通りの異なる概念で説明できるということは意識しておいて良いと思う。


 もう一つ印象に残る批評は昨年きいたScott Gilbertの講演だ。Developmental Biologyの教科書で有名な彼だが講演では生物学におけるmetaphorの乱用の批判を展開した。metaphor=隠喩、と訳されているようだが単なる類似とは異なる。


metaphor乱用の例として受精を精子(男)と卵子(女)の交合にたとえて説明することを挙げていた。受精は男女の愛の結果かもしれないが受精自体に愛などはない。単に誘因物質に向かって走行する鞭毛モーターによって推進される精子核の弾頭の輸送である。metaphorは非科学者が科学に親しむことを助ける。しかし表面的に理解した気にさせることで本質的な理解に至ることを妨げて、似非科学や宗教が入り込む隙を与える。


 ゲノムに刻まれた論理を読み解くのに人間くさい記述(=アノテーション)に頼ることでmetaphorの罠に陥る危険を我々は心しなくてはいけない。