体育会系

 今日も晴れているが自転車に乗ると空気はまだ冷たい事。バイクライドには最適なのだが今週は飲みと外食が続きいまいち力が湧かない。というわけで論文に手を入れに職場へ出かける。


 とある雑談で人物のタイプを評して「体育会系」との表現がでてきた。これは何を意味するかを考えてみた。
+礼儀正しい。
+年次による序列に厳格で、上下関係を重んじる。
+ということは目上に対して下手に出て、目下にたいしては上手にでる、ということだ。


私は目上目下、という見方は好きではない。


 終身雇用の会社や官僚の世界のように序列によって秩序を保つ世界ではこの体育会的価値観は都合の良い道具だ。大きな講座を維持している大学医学部や、学閥でもこの価値観は生き続けている。組織維持への貢献を認められて今まで生きてきたのだろう。しかしこの価値はすでに死に絶えつつある。


 日本の大学の体育会、から世界一流のアスリートが輩出されることが近年どれほどあっただろうか?体育会的美学の最たる大学ラグビー部。その伝統は愛すべき物で、美しい。しかし残念ながら国際的なレベルは低く、大学ラグビーが世界的レベルのチームを生むことは100年待ってもあり得ない、と思っている。


 サイエンスに関わる者は「体育会」が象徴している秩序を忘れなくてはいけない。この秩序には学閥、研究室閥も含まれる。これらのつながりは日本でお山の大将になるにはとても有効だ。しかし自分自身の真の価値を見誤らせて、海を渡って世界を目指すに場合には足かせになりかねない。序列に頼った組織は自己研鑽の努力を鈍らせるのだろう。


 では代わりになるよりどころは何だろう?それはサイエンスに対する価値観以外にあり得ないと思う。優れたサイエンスを実践する研究室で、高い見識を示せるリーダーとその見識を理解できるメンバーがそろってこそ良いチームが生まれ、良い成果が生まれるのだ、と思う。年次は二の次だ、しかし年月を重ねた先達に対する尊敬は大事にしなくてはいけない。


 もちろん大きな組織運営に関してはいかに規則を整備して身勝手を封じるか、ということに重きを置いた議論になり、それはとても大事で必要な事だ。しかしサイエンスに対する畏敬の念を共有することは科学者の集団の根底になくては我々が職業として科学に取り組む事の意味はない。