開国

 外国人のPD候補を面接した。そしたらラボのメンバーにこう聞かれた、「この人が来たらセミナーは英語になるんですか?」。当たり前である。
 日本の学会の英語化が叫ばれて久しい。しかし一部の先進的な学会を除いて英語化は遅々として進まないのが現実だ。私の関係する学会でも口頭発表を英語にする案が出たらかなりの反対がでて骨抜きになってしまったそうだ。

 なぜ英語化をはからなければいけないのか?いくつか理由を挙げておく。

  1. 科学の共通語である英語を使いこなす訓練を若いうちに積むことで、研究成果をより積極的にアピールできるようになる。同じレベルの研究でもアピールの違いで国際的な認知度に差が出てくる。この点で悔しい思いをした人は多いはずだ。高いレベルの研究にはそれにふさわしいプレゼンテーションが伴わなくてはならない。
  2. 近隣の諸国は科学者数の少なさから国内学会を持たない研究者が多い。そういう人たちから日本の学会に参加して交流し、実質的な共同研究に発展させたいとの希望を数多く聞いた。このような希望をかなえることで日本はアジアの科学者に対して貢献を果たすことができるはずだ。しかしながら発表言語が日本語ではどうしようもない。こちらから招きたくても招くことはできない。
  3. これまで学会は国の科学研究費審査の下請け機関として存在意義をはたして来たところが多い。しかし機構改革でもうその任務は終わった。学会は真にサイエンスを語る場として再生しなければ存在意義はないのだ。そしてサイエンスの競争力を保つためには日本人にしか通じない言語で行う議論では不十分だ。
  4. 科学の世界は狭いものだ。知り合いをたどれば誰でも高名な研究者へのつながりを見つけることができるだろう*1。自分が意識するよりも遙かに濃いつながりの海の中で我々は科学しているのだ。国際的なリンクをもっと増やそうではないか!

 とはいえ英語で話すのは大変だ。できればしないですませてしまいたい、と思っている人は多い。しかし苦労は買ってでもすべきだ、特に若いうちに。

 構造改革は行政の問題だけではない。科学の世界も前例を変えない悪癖によって後退していく危険がある。よりよい改革が唯一の生き残りの道という点では我々も日本国家と同様の危機に接していると思うべきだ。

 というわけでうちにも外国人メンバーが加わり遅ればせながらも英語化の第一歩をふみ出すことになる。そして英語発表を指名されて顔面蒼白になっている学生もいるようだがそれも通過儀礼のひとつ。うまく乗り越えて大人になってもらいたい。

*1:共著の論文があればつながり(=リンク)がある、というやり方で有名人とのリンクの距離を測る遊ぶがある。ちなみに私はEd Lewisまで2リンクだ!