科学に対するお国柄

 昨日のセミナーはアメリカにおけるヒト幹細胞研究の現状についての話だった。要点は、以下の通り。

  1. アメリカでは胎児に由来するヒト胚性幹細胞を利用した医学研究は国によって厳しい制限がかかっており、公的機関において実質的に研究不可能な状態である。理由はヒト胚はすでに人格が認められるので中絶と同様にヒト胚を破壊すること倫理的に認めがたいという極めてキリスト教の宗教色が濃い考えからだ。
  2. この議論の詳しいことは省くが、科学的にはヒトの初期胚の細胞は基本的に皮膚や血液などの細胞と同様に見て良く、こういった段階の細胞に人格を認める意味は薄いとする考えが主流になりつつある。
  3. ヒト胚性幹細胞は様々な臓器の細胞を生み出す能力を持ち、臓器移植に代わる治療法として期待されている。そこで患者グループが保守的なブッシュ政権に働きかけることをあきらめて、かわりにカリフォルニア州の政府にヒト胚性幹細胞研究の推進を働きかけた。そして幹細胞研究を推進するための法案を成立させてしまった。この法案によって巨額の研究費を州債でまかない国費に頼らずにカリフォルニア州において研究推進をはかれることになった。その結果設立されたのがCalifornia Institute for Regenerative Medicine (CIRM) だ。国家の政策を覆す政策を州が行ってしまうところがアメリカ的なところで地方分権どころの話ではない。裕福なカリフォルニア州ならではのことだろう。
  4. セミナー演者でCIRMを率いるZach Hall博士は彼らの計画を阻む様々な抵抗(多くは非科学的な理解に基づく)を嘆いておられていた。しかし一方でこの困難な状況は変わると断言していた。彼の発言で印象的だったのは、「人々は新技術をはじめは警戒するが、いったんその有用性が認められればすぐに受け入れる。組みかえDNA技術、人工授精などの生殖医療などは最初慎重論が多かったが今では社会に根付いているではないか。我々がアメリカでヒト胚性幹細胞の有用性を示せばアメリカ国民は受け入れるはずだ。」という意味だった。

 さて日本ではヒト胚由来の幹細胞利用は議論を経た上で研究はスタートしている。アメリカに比べれば比較的反対は弱かったようだ。これは我々日本人と欧米人との死生観の違いによるものが大きいと思う。日本人は「生を受ける時期」の厳密な定義は定まっていない。人によって、状況によって考えは柔軟に出来るように私は思う。欧米では教会が生の始まりを受精と定義するのでその縛りを超えることに大きな抵抗があるのだ。

 一方で日本人は死の定義にこだわりがある。人間の人生は遺体が確認され、葬儀が済み骨を灰にした時点で完結する。だから戦後60年になってもまだ遺骨の収集は続いている。えひめ丸アメリカ海軍の潜水艦によって沈没させられた時も何週間経ってもの高校生たちの家族は捜索の続行を主張した。捜索作業はもはや救出ではなく遺体を回収して、骨を灰にするためなのだが家族と日本政府と日本国民はこの方針を支持した。遺体回収にこだわる日本人の考えをアメリカ人には理解し難かったようである。当たり前だ、真珠湾にはまだ米兵の遺体が沈んでいるのである。

 日本人は遺体を埋葬しないと死が完結しない。しかしアメリカ人のあいだでは「もはや生きてはいない」時点で死が確定するのだ。

 このような文化の違いが、科学の生み出す果実をどう受け入れるかの日米の国民性のに表れる。日本では最近では組みかえDNA作物に対する風当たりが強い(私は過剰反応だと思っている)。アメリカ人はポテトチップの原料が組みかえDNA作物かどうかは気にしない(BSEまで気にしないのは無頓着なのだが・・・)。

 日本の中高生がDNA組みかえ技術が実生活にどのように役立っているかを正確に理解し、欧米の若者が幹細胞技術のインパクトを理解すれば現在のような理不尽な各国社会の反応も10年後には薄れてくるだろう。そしてそのような教育に成功した国が科学技術を真に使いこなすことになるのだと思う。それははたして日本だろうか、アメリカだろうか、それとも他の国だろうか?

 無知でいることに無頓着では国が滅びかねないことを知っておかねばならない。