da Vinci その2

Art is never finished, only abandoned

 芸術に限らず科学論文でも仕上げにかかるとなかなか進まない。あれも足りない、これも加えたい。でも締め切りは迫る、海の向こうのライバルは着々と先を行く。どこかできりをつけて終わりにしなくてはいけない。


 レオナルド・ダ・ヴィンチも作品を顧客に手渡す時こんな気持ちだったのだろうか。この偉大な芸術家の作品はみな彼がうち捨てる気持ちで完成されたものだったのかと思うとなんだか残念。しかしこれはより高い完成度を目指す作家の気持ちの表れで、完成に終わりはないということだ。


 矢野顕子Super Folk Songに印象的なシーンがあった。録音された演奏をチェックしていた彼女が一カ所だけ音をはずした所に気がついた。困った顔の矢野顕子、集中力を高め直してレコーディングする時間はもう残っていない。そこでディレクターが「ここは私たちに任せてください。これくらいは仕事させてくださいよ」。後で音程を調整するという意味だろう。演奏は完全ソロの一発録りなのでディレクター達ははらはらしながらテープを回すだけだったわけだ。結局矢野顕子は渋々納得で収録終了。これもabandanされた瞬間なのか?それにもかかわらず作品のできばえはすばらしい。

  • Super Folk Songについての日記はここ


 うち捨てたはずの作品でもぎりぎりまで精魂込めたものには違いない。顧客に手渡した以上は自らに課した基準はクリアしているはずだ。作品に集中している間は気持ちも高まっていてあらゆるディテールが気になっているはずだ。でも自らの手を離れた後、一定の期間を経てから気持ちを新たに見直したとき、違った角度から見ることができて自分の作品を見直せる事もあると思う。


 私はダ・ヴィンチ矢野顕子に聞きたい。いったん自分の手元を離れた作品を年月がたってから見直して批評してください。「うち捨てた」と思った瞬間よりも案外いいできばえだったのではないですか?なぜなら精魂込めていた作品だからこそ納得いかない気持ちを残して手放さざるを得なかった可愛い子供のようなものだ思うからです。年月はやり足らなかったという気持ちを忘れさせ、作品そのものの良さを自分に再認識させてくれるものだと思うのですよ。


 ではうち捨てる事もできない作品はどうなるのか?陶芸家の壺のごとく割られ、焼き捨てられるのだろうか?自分が愛せない作品を世に出すような事は本物の芸術家はしないだろう。

 科学者としての自分にとってできることは、後で読み直して「やっぱり出しておいて良かった」と思える仕事を論文として残すことだ。ダ・ヴィンチではない私だが最後の瞬間まで精魂を込める、そして自分が愛せない仕事は世に出さないという矜持は保っていきたい。