羊頭狗肉

Human embryonic stem cell lines derived from single blastomeres | Nature

 あきれた話である。先日メディアを騒がせたニュースがこれだ。

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20060824ik08.htm
人間の胚(はい)(受精卵)を壊さずに、その一部を使って、さまざまな臓器や組織の細胞に変化する能力を秘めた胚性幹細胞(ES細胞)を作製することに、米バイオ企業「アドバンスト・セル・テクノロジー」の研究チームが成功した。

 胚を壊して作る従来の方法に比べ、倫理的な問題が少ない利点がある。英科学誌ネイチャー電子版で23日発表した。

 ヒトES細胞は受精卵を破壊して細胞を取り出して培養することによって作成される。胞胚期の胚をヒトと見なすかどうかは生命観・宗教観によって様々な見解があり、国によって規制の度合いは異なる。科学大国アメリカでは許されていない。この法律をかいくぐるには胚を破壊せずに1個か少数の細胞を取り出し胚と細胞の両方を生存させる技術があれば法の規制(アメリカやドイツ)をかいくぐることが出来る。そんな技術を確立したと宣伝されたのがこの仕事だ。その反響は大きくホワイトハウスがコメントを出すまでになった。

経済、株価、ビジネス、政治のニュース:日経電子版
 米ホワイトハウスのペリノ大統領副報道官は24日、米企業の研究チームがヒトの受精卵を壊さずに胚(はい)性幹細胞(ES細胞)の作製に成功したと英科学誌、ネイチャーに発表したことについて「ブッシュ大統領は勇気づけられている」と述べ、歓迎する考えを示した。

 しかし論文を注意深く読むと宣伝された内容と実際に報告されている実験結果には重大な違いがあった。実際には実験に使われた胚は全て破壊され、バラバラにされた細胞からES細胞がつくられた。これまでは胚由来の複数(多数)の細胞を使って培養を開始したのに対し、今回は単一の細胞から出発してES細胞株の作成に成功したところが新しい。しかし作成の効率はまだ低く、とても実用的なレベルには達していない。これまで出生前診断のために胞胚から細胞を取り出して検査に回し、残りの胚を着床させる技術はあった。なのでこれらの方法を組み合わせれば原理的には受精卵を壊さずにES細胞の作製は可能となる。確かにそうだ。しかしその効率がどれほど良いものかは実際に行って見ないとわからない。しかし100個程度の胚は犠牲にしないと成功は望めないだろうから実用にはほど遠いレベルだ。

 この論文は科学的な新概念の発見ではなく、テクノロジーの進歩としても控えめなものだ。その価値が認められたのはアメリカという国の法律と倫理の規制をかいくぐってES細胞の作成につながる道筋を示したということだ。しかしその様な規制がかかっていない国に取ってはたいした価値はない。法と倫理の抜け道を発見した業績に対しての極めて政治的な価値判断が働いたということだ。

 またこの論文が電子出版されたのは8/23だった。これは京大の山中伸弥教授らが報告した体細胞から多分化能を持つ細胞を確立できるとした論文の発表にあわせて公表したのだろう*1
http://www.cell.com/content/article/abstract?uid=PIIS0092867406009767

 ジャーナル同士の競争による圧力があったのだろう。そしてネイチャーはプレスリリースで勇み足の誤った報告を流してしまい全世界に配信された。

 この報道を眼にした時には「胚を分割してES細胞と胚両方を生かすなんてずいぶんトリッキーな方法だなー」としか思わなかったのだがそれすら実際には実現していなかったと聞いてあいた口がふさがらなかった。確かに論文に書かれていること自体に問題があるわけではない。しかしそれを公共にアナウンスする際に法螺が混じったのだ。法廷で宣誓の上で証言したことと、法定外でメディアに対して話すことに大きな食い違いがあった。確信犯だったのだろう。誤解を招く宣伝と報道をした著者とネイチャーの責任は大きい。

 まっとうな読者はすぐに報道と論文内容の違いに気づいてネイチャーに指摘が殺到したらしい。今週号にその反省記事が掲載されている(無料で読める)。プレスリリースはすぐに訂正しました、と述べているが覆水盆に返らず。誰もそんな訂正記事など見もしない。

'Ethical' stem-cell paper under attack | Nature

 このような嘘すれすれのはったりで株価を乱高下させる真似に対して真摯な科学者はノーの意思を表示すべきだ。すれすれの嘘嘘すれすれが真っ赤な嘘の温床とならぬ事を願いたい。狗肉を食わされるのは御免こうむる

*1:実際は汎用性の点でのインパクトは山中氏らの方法の方がはるかにインパクトは高い。追試の報告とさらなる改善が必要なのは言うまでもないが。