血と油

長島昭久 WeBLOG 『翔ぶが如く』 政府の悪あがき、さらに続く

 この長島昭久氏のエントリーについてはブクマでもコメントしたが今の彼は暴走気味なのが心配。この人は給油でひとまず丸く収まっていた国際貢献に、油ではなく国民の血で貢献するための議論に踏み込ませるつもりのようだ。

(前略)もちろん、民主党としても、「反対」の結論を強調してばかりはいられない。今こそ、洋上給油に代わる具体的な代案を提示していかねば、政権担当能力が疑われてる。そこでは、6年間の「テロとの闘い」を総括し、日本としての主体的な「闘い方」を示し、国際社会との協力の進め方についても、原理原則アプローチのみならず現実的なアプローチを踏まえて新たな構想を提示して行かねばならない。その構想は、単に「洋上給油を再開する」だけ(と巷間伝えられる政府与党提出予定の新法)の次元を超えるものとなるであろう。

この間、ワシントンとの情報交換や、米国や欧州から帰国した研究者からブリーフを受ける中で、私はある重要な事実を改めて認識するに至った。すなわち、いったんインド洋から補給部隊を撤退させてしまったら(それは安倍首相の辞任に伴う国会空転で、もはや必至の情勢だ)、単に洋上補給を再開させるだけでは済まされない、という事実だ。それが、国際社会の偽らざる「空気」だというのだ。2日前の国連決議に対するロシアやドイツの反発は、そのことを如実に物語っている。「なんだって?日本は、カナダをはじめ多くの国々がアフガニスタンでのテロとの闘いで夥しい血を流しているのに、戦火から遠く離れたはるか彼方の海の上で安穏とガソリンスタンドをやってきたのか?!」と。(後略)

 洋上補給から撤退する(であろう)事態になったのは野党の揺さぶりの結果だが、長島氏はこれを機に別の「貢献」を考えておられるらしい。

 政府のインド洋で給油した油がどこで使われているかについての答弁は日本の「核兵器持ち込ませず」の議論を彷彿とさせる。日本に寄港するアメリカの戦艦が核兵器をおろしてから日本に来るとはとうてい思えないのだが、そこの点に政府は深く触れずに、アメリカがないと言っているのだから持ち込まれていない、という見解で納めている。日米関係の中で妥協策なのだが国の選択としてはグレーゾーンに矛盾を押し込む苦肉の策だ。だからといって私はこれを潔癖に非難するつもりはない。政権党内の争いと、野党との駆け引きに惑わされてこれまで苦労して勝ち取った選択肢を失わないよう現実的な判断をしてもらいたいと思うのだ。

マキャベリの墓:彼は目的達成のためには道徳を犠牲にしても仕方ないとする現実主義を唱えたそうだ。