Theory vs Principle

 「生命情報システム」というグループの会合に行ってきた。これはゲノム科学を共通基盤として情報科学者(bioinformatician)と生物学者(biologist)がノウハウを交換して生命システムの理解に貢献しよう、という趣旨のグラントである。大量の遺伝子配列情報があふれているこの時代には情報科学者の助けなくしては我々生物学者は赤子同然である。また情報学者も実験データや、解析結果の健全な解釈を行える生物学者の協力なくしては仕事は成り立たない。しかしながら両者の間には溝があってよそよそしいところが抜けきれない。私も情報科学者の多い以前の職場では10年以上そのような環境にいたがやはり情報学者との会話には違和感をぬぐえなかった。それはもしかしたらデータを配列や数値にデジタル化して初めて仕事を始めるという環境が生命現象そのものに向き合う事から彼らを遠ざけさせてきたのかもしれない。

 とは言っても今回の会議では多くの論客がそろってとても有意義な出会いと議論が得られた。最後のセッションで「なぜ情報学者と生物学者は分かり合えないのか?」と言った趣旨の討論会があって色々考えるところがあった。ここでは一点だけ、私の思うところを書いてみる。

 今回は積極的に情報系の話を聞いてみた。昔に比べればかなりフォローできるような気がするのだがそれでも一つ違和感のある言葉があった。それは「理論」。これは法則、(theory)と同じなのだが情報系の解析で導かれる、幅広く利用できる考え方の事だと思う。生物学にはメンデルの法則、進化論、中立説、などいくつかのセオリーがあってこれに異議はない。しかし情報解析から導かれる話では、類似機能の遺伝子はクラスターする、とか脳遺伝子は進化速度が早いとか、生物機能のネットワークはscale freeであるとか行ったものを聴く。これらはいくつかの(場合によっては膨大な)サンプルを比較して得られた共通の傾向を元に導かれたアイデアが多い。しかしこれらのセオリーは必ずしもその根本にあるメカニズムを示しているものではない。「私の理論は」といわれて内心違和感を感じる原因はおそらく「あなたはその話を理論といったときにその理論と心中するつもりなんですか?」という感慨からなのだと思う。


 私が発生生物学をやっていていつも思うのは常識と予想を裏切る結果からこそ新しい発見が生まれるということだ。自分自身の考えもいつか覆るという予感と畏れをもってこそより優れた、確かな考えに昇華させる努力が生まれる。自分のアイデアをセオリーと呼んだ時点で守りに入ってしまいより発展させる機会を逸するように思う。


 私が理論や法則に代わって好む言葉は原理(principle)だ。前者との違いは理論が一般的傾向から導かれた法則性にとどまるのに対して後者は物質的な(メカニズムの)基盤をともなって初めて原理といえる所だと思う。分子生物学セントラルドグマなどはもう原理といって良いし、昆虫の発生で使われる前後コンパートメントはGarcia-Bellidoらが見いだした1970頃には奇妙だが一般性のある現象という認識だったが今では翅や脚、体節の形成を司る根本的な仕掛けでコンパートメントを基盤とした発生の原理が完成しつつある。これを原理と呼んで良いと思うのは遺伝子元にした確固たるメカニズムの基盤があるからだ。


 私は原理には感動できるが理論と法則には感動できない。そして美しい生き物の姿にも心打たれる自分はつくづくアナログな人間なのだと思うのである。