捏造されたクローン

 ここしばらくメディアをにぎわせていた韓国の黄禹錫(ファンウソク)教授らによって作成されたとする患者からの体細胞核移植によるES細胞の真偽について、ソウル大学当局の調査委員会からの中間報告がでた。報告された11個のクローンのうち9個については存在しないにも関わらずあたかも存在するかのように実験データを偽造していたという。そして今日、残りの二個のクローンも偽物らしいという情報が調査委員会から韓国メディアにリークされた。これで彼らの2005年の論文は完全な捏造と言う事になりそうだ。
 これは生命科学研究にとって大打撃だ(えらい迷惑だよー)。研究者への信頼を前提とする審査システムが裏切られたために今後は研究報告の審査に対してこれまでより厳しい審査体制が要求されるだろう。それは審査員(=科学者)に過大な負担を強い、オープンな情報開示を妨げることになりかねない。最も困ったことは「科学者は嘘をつく」という悪い例が喧伝されてしまったために、社会からの科学と科学者への信頼を回復するためにこれまで以上の大きな努力が必要とされることだ。

待ち望まれた成果

 多くの病気は臓器の機能が低下し、身体機能を維持できなくなることが原因だ。ならば悪くなった臓器(もしくは細胞)を入れ替えようというのが臓器移植だ。しかし移植に適合するドナーの探索には時間がかかり、ドナーには痛みを伴う、またはドナーの死が前提となることも多い。人の死を前提とする治療は本来の医療の目的との矛盾を抱えており、現代の移植医療はあくまで「つなぎ」の技術にすぎない。ES細胞は大量に増やすことができ、組織適合性と分化制御の問題をクリアすれば移植治療に代わる安価で一般的な治療法になりうる。

 患者の体細胞由来の核を用いてつくられたES細胞であれば組織型の適合は完璧だ。マウスでの基礎実験は済んでいる。後はヒトの細胞で実行するだけだ。しかしこのような技術を有する先進国では倫理的な問題からヒトの胚を用いるこの実験の扱いには慎重で、研究は遅々として進まない。

 そのような背景でのES細胞作出のニュースだった。

なぜ偽造データが論文審査を通過したのか?

 Science誌における投稿論文の審査は厳しい。また疑惑がささやかれる犬のクローン作成論文が掲載されたNature誌についても同様だ。核移植によるクローン作成の研究に関する審査は特に厳しい。研究者の報告の正確性に依存しており、第三者が検証して「クローンであること」の確認をする余地が他の実験に比べて少ないからだ。マウスをつかってのクローン研究のパイオニアである, 若山照彦氏・柳町隆三教授らのグループがNatureに投稿した論文reject、再投稿、レビューワーからの確認実験を繰り返し要求され、苦労のあげくに受理された。実験結果の信憑性を証明するための努力は相当なものだったらしい(リアル・クローン に詳しい)。

 一方黄教授らの論文は"Received for publication 15 March 2005. Accepted for publication 12 May 2005."とあるので2ヶ月で受理だ。最初のレビューの後で追加実験を必要としない簡単な修正を加える程度の時間だ。

 どうやって審査を易々と通過したのだろうか?以下は私の想像だ。このようなタイプの研究は社会的な要請に由来する「こうあってほしい結果」がまず存在する。この場合「ヒトで患者の体細胞由来のクローンをつくることができる」という結論だ。すでにヒトの体細胞クローンをつくることができるとする報告は黄教授らが同じサイエンスに2004年に報告しているので今回はどれくらい効率よく、多くの提供者に対応できるかが評価のポイントになる。そういうポイントをすべて満たしたものが問題の論文だった。期待される結果を待ちかねていた所に届いたものだから熱烈歓迎で評価も甘くなってしまったのだろうか。

著者の責任

 存在しない細胞をでっち上るとはひどいものだ。いったん発表されたら研究資料は公開する義務が生ずる。一体彼らは細胞を請求されたらどう答えるつもりだったのだろうか?はじめから他人に渡すつもりはなかったのか?

 この論文には25名の著者がリストされていた。ひどいのは疑惑が発覚してからというもの、25名の著者の間で非難中傷、果ては教授が研究員を告訴する騒ぎまでに発展した。論文の信憑性に責任を負うというのが著者に名を連ねる資格と責任なのだがこの25名はそのような意識はなかったようだ。マンションの耐震強度偽造事件で見られた責任のなすりあいのようだ。多数のメンバーからなるチームの場合、リーダーの統率が崩れるとこの有様だ。

 corresponding authorをつとめて論文作成と投稿を統率していたのは黄教授ともう一人ピッツバーグ大学のShatten教授だ。彼は11月頃に論文の形勢が危ういと悟ったのかまず黄教授と袂を分かつとメディアに発表し、そののちScience編集部に論文から自分の名前を削除するように要求した。corresponding authorが真っ先に責任を放棄して逃げだしをはかったのである。しかしScienceは「一抜けた」は許さないと、この風見鶏のような教授の要求を拒否した。あきれた泥仕合だ。

クローンの歴史、疑惑の過去

 体細胞クローンの手法自体は単純である。受精卵の核を除去して体細胞由来の核に入れ替え、発生させる。blastcystの時期に胚を培養してES細胞に株化する。しかし手先の器用さと胚の慎重な扱いが必要とされ、成功率は低く、習熟度によって大きく左右される。体細胞の核に生殖細胞と同様の能力が保たれているのかどうかという点は発生生物学の重大なテーマであった。従って体細胞核の能力を最も直接に検定できる核移植の実験はこれまで繰り返し試みられてきた。その経緯はJohn Gurdonの総説に詳しい。しかし成功率は低く、他の研究者による追試がうまくいかず疑惑をもたれるケースもある。

 最も大きな「事件」はスイスのKarl Illmensee博士による世界初のマウスの核移植クローンの報告だ。Cell誌の新年号の表紙を飾ったこの仕事は発表後しばらくしてから追試が難しいとの噂が流れていたらしい。しかし疑惑が噴出したのはIllmensee博士の研究室メンバーから博士は肝心の実験を行っていなかったのではないか?との告発があったからだ。しかし大学当局が組織した国際調査委員会は明らかな偽造の証拠を見いだすことはできず、さりとて潔白の証明もできず明確な結論を残さなかった。しかしIllmensee博士の研究費は絶たれ職も辞することになった。ことの真相はわからない。しかし今では忘れ去れた仕事となっている。
しかしIllmensee博士は極めて優れた能力を持った研究者であることは知られていた。彼のショウジョウバエの極細胞質に生殖細胞誘導能があることを示した研究は困難だが再現性のある重要な実験だと認められている。真相は今では藪の中だ。

研究者のcredibility

 実験結果を追試できないことは偽造の証拠とはならない。さりとていったん疑われると真実の証明も簡単ではない。悲しいことだがいくら審査を厳しくしてもすり抜ける試みは今後も後を絶たないだろう。結局仕事の信頼度を決めるのは研究者個人の人格と社会的信頼度が大きい。この信頼は時間をかけて研究発表や、研究の交流、実験データの交換などを通じて培われるものだ。credibilityの獲得に時間を時間をかけ、その維持に努力を払うことができる研究者こそが生き残れるのだろうと思う。これが今回の事件の教訓だ。