John Harlins

The Eiger Obsession: Facing the Mountain that Killed My Father

The Eiger Obsession: Facing the Mountain that Killed My Father

 ジョン・ハーリンといえば1960年代のヨーロッパアルプスで活躍したクライマーで、ヨセミテ出身のクライマーたちと共に高難度のルートを次々に開拓した。しかし彼が最も有名になったのはハーリンがオーガナイズしたチームでアイガー北壁のダイレクトルートを開拓中したことだ。完成したルートは彼の名前を冠してジョン・ハーリンルートと呼ばれているが彼自身は頂上目指した最終プッシュに向かう途中にロープが切断して墜落死した。

 フィラデルフィアで立ち寄った本屋で手にとって購入したのがこの本だ。著者はジョン・ハーリンが墜死した時9歳だった息子ジョン・ハーリンIII(今後Jrと呼ぶ)。この本はJrがジョン・ハーリンIII(Dadと呼ばれている)の生い立ちを語り、父を失った家族がどのように再生し、Jrがクライマーとなることを選び今に至ったかを語るJrの自叙伝だ。Jrが語る時代と人々の事を知る者には興味深い本だ。

 面白かった点をあげておく。

アイガーダイレクト

 大いに賞賛された伝説的なルートだったのだが、話を読んでみると実際は危険きわまりない無謀で無様な登攀だった事がよくわかった。

 このルートを長年ねらっていたハーリンは様々なメンバーに声をかけて居たが結局実行メンバースコットランドドゥガール・ハストンアメリカ人のレイトン・コア。ハストンは氷壁スペシャリストで、コアはコロラドで高難度の岩のルートを開きまくっていた当時のアメリカで最高のロック・クライマーの一人だ。年長者のDadはリーダーで資金調達を含めたオーガナイザーの役割だったようだ。落石の少ない冬に高難度の新ルートをアルパイン・スタイルで開拓すると言うもくろみは大胆であったが天候、難度、それからドイツチームとの競争状態に巻き込まれ、スポンサーとの関係もあったのだろう、なんとしてでも登らなくてはいけない状態になったクライミングは次第に理想から離れ醜悪なものになっていった。

ルートの困難さに阻まれてゆっくりとしか進めずロープを固定しては壁のビバークサイトと麓のホテルを往復する。最初から多人数で包囲法を採用したドイツチームと同じ戦略になってしまった。クライマーの人数不足の結果、当初はクライマーとしての参加を拒否してカメラマンとして随行していたクリス・ボニントンが核心部の氷壁をリードする羽目になった。ハーリンは天候待ちの間に行ったスキーで肩を脱臼し十分完治させないままに登攀に復帰。最終段階では体調を落として肺炎の症状を示していた。それでも競争とスポンサーの手前登攀は無理しても続かざるを得ない。上部の核心部を突破できないドイツ隊は合同チームとして頂上に向かう案を提案し、ハストンはこれをのみハーリンが麓で休養して居る間に合同チームの案が決まってしまった。リーダーの面目丸つぶれである。

 最終プッシュに向かうハーリンはチームの最後尾を固定ロープを辿って登っていたが岩角で傷んだ7mmロープが破断して彼は墜落死する。細いロープを重装備の大男たちが登下降を繰り返していたので摩耗を繰り返していつかは必ず切れる状態にあったのだろう。ハーリンはロシアンルーレットの悪いくじを引いたのだが、彼でなくとも誰かの番で必ず切断する状況だったのはずだ。そもそも長期間の包囲法で進むならもっとしっかりしたロープを設定して安全の確認をするべきで、それを怠ったのはリーダーであるハーリンの責任だ。

 この登攀の凄いところはハーリンの墜落死の後にある。後続のハーリンを待っていたハストンたちは無線連絡でハーリンの墜落死を知る。残された好天の期間はわずか、ハストンとドイツ人たちはそのまま山頂を目指して登攀を続行し、冬の嵐の中を完登した。

  北壁から落下する物体の目撃情報を聞き岩壁基部に捜索に出たのは麓で待機していたボニントンとコアだ。彼らは肉塊と成り果てたハーリンを発見し、死亡を確認する。激しく動揺した二人は遺体を回収することができない。しかし気を取り直したコアはハストンらの登攀続行の知らせを聞き、彼らを追って残された固定ロープを辿り登頂を目指した。ところが最上部でドイツ隊が傷んだ固定ロープを回収してしまいそれ以上の登攀を断念した。コアは唖然としたらしいが状況を考えればドイツ隊の判断は妥当なものだろう。

 ボニントンは通常ルートを辿って山頂に達しハストンたちのサポートにまわった。そして登攀が続行している間にハーリンの遺体は自宅のあるレイザンの墓地に埋葬された。アイガーチームの仲間は登攀中で誰一人として参列できなかった。ハーリンの遺志を貫いてルート完成を目指したといえば美談だが、その実は誰もが目の前にちらついた栄誉の麻薬に浮かされてエゴむき出しに行動していたようにしか思えない。

 かくしてハーリンは死亡し、アイガーダイレクトは完成した。

父親の喪失と家族の再生

 ハーリンの家族は誰も父の遺体を見ていない。妻のマリリンだけは遺体を見ておくべきだと考えていた友人もいたようだ。遺体を確認することで故人がもはや返ってこないことを納得し、その上で次の生活に踏み出せるからだ。知的な女性だったマリリンはそれでも気丈に状況に対処し、Jrも本人の筆によればなんとか適応できたようだ。ただし妹の方は父の死を受け入れることができず精神的に困難な少女時代を過ごしたらしい。やはりどんなに過酷でも家族には死の事実をしっかりと認めさせる事は大事なのだと思った。

 ハーリン一家はレイザンを去り、マリリンの父母のいるワシントン州に戻り、母方の祖父に面倒を見られながら育った。Jrは祖父や、母の友人たちに父の代わりを求めつつ青年に育ちやがてスキーと山登りに親しむことになる。

 スタンフォード大出身の母マリリンはその後大学院博士課程のフェローシップを得て子供を育てながら博士号を取得、ロードアイランドで職を得て植物学の教授まで上り詰める。ただ者ではない、あっぱれな女性だ。

クライマーとしてのhttp://www.johnharlin.net/John%20Harlin%20III.htmlジョン・ハーリンJr

 Jrも有名なクライマーでかつて「岩と雪」に連載された鈴木英貴さんのアメリカクライミング紀行にも頻繁に登場した。私が80年代後半にコロラドで登っていた頃も雑誌に記事をよく見たものだ。残念ながらお会いしたことはなかったが今ではAmerican Alpine Journalの編集長を務める大御所といって良い。

 彼が50歳近くになってアイガー北壁のルートを登るというイベントは映画化されて有名になったらしい。ただしこれは難度も比較的優しい通常ルートで本人もこれが父たちの登攀には比べるべきものではないことは承知している。個人的なセンチメンタル・ジャーニーの趣だ。

 しかし本書の後半部は中年になったJrが職を転々としつつ家族と自分の生き甲斐のバランスをとって生きていく生活感あふれる物語でいろいろと身につまされるところがある。

講評

 ☆1960年代のクライミングはリスクの高いものだった。今ではあれは無謀だと思えるが、分の悪い賭に命を差し出すような若者がいくらでもいた時代だった。その象徴であるジョン・ハーリンとその息子を通じて家族の解体と再生を語る物語だ。ハーリン・ハストン・ボニントンの名に反応する人にとっては読む価値があるだろう。