大岡昇平

野火 (角川文庫)
 南方戦線レイテ島における日本兵の惨状を描いた戦争小説。この作品が単なる悲劇にとどまらず、優れた文学作品に昇華しているのは時折おかしみを含めた描写を交えつつ*1、冷徹な客観的な描写がクリアだからだろう。しかし自分が若い頃なら最初の数ページで放棄していたものと思われる。この作品を受け入れる準備に長い時間を要したのだ。大本営から遙か彼方の前線での真実。

 この作品は複数の出版社から発行されているが私が読んだのは角川文庫版。読み終わって最後に掲げられた角川文庫発刊の辞が、特に第一節が、まさに本作品に寄せられたような名文である。この季節にふさわしい文章でもあるので引用させて頂く。

角川文庫発刊に際して               角 川 源 義

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。

 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
   一九四九年五月三日

*1:中条昌平氏が引用している