吉村昭

ニコライ遭難 (新潮文庫)

ニコライ遭難 (新潮文庫)

吉村昭は高熱隧道、島抜け、と読んできたがこの作品は別格の出来。例によって写実に徹した表現で淡々とした記述が続くのだがロシア皇太子ニコライの日本周遊の記述が進むに従って緊張感が高まって来る。そして警察官津田三蔵による襲撃があり舞台は一転して法律論議に変わる。

 当時南進の機会を虎視眈々とねらっている超大国ロシアの圧力におびえる日本政府はロシア皇太子の来日を日露関係強化の機会と捕らえてぬかりない歓迎体制を引いていた。にも関わらずよりによって警護の警官による襲撃でロシア皇帝の怒りを買ってしまう。日本の国内法に従って最高刑の終身刑を科すのか、それともロシア懐柔のためにも津田三蔵を死刑に処するために法解釈を曲げるかの論議が延々と続く。この議論を巡る政府と法曹関係者のやりとりが本書のクライマックス。

 感情は殺して法律に準ずるという精神が最後に勝ちを納めて政府を押し切った。幸いロシアも矛を収めたので国際紛争に至ることはなかった。しかしロシアの出方は遠く離れた日本から正確に読めるわけもなく幸運に恵まれて丸く収まったと言うように書かれている。いや現代でもとても似たような事は毎日起こっている。インド洋の給油問題、光市の母子殺害事件、飲酒の危険運転、愛知県の女性殺害事件。現行法の範囲で果たして正当な処置が出来るのか?一時の感情的な判断の迷いで法をむやみに曲げる事は長期に渡っては国家の品格を損なうリスクを伴う。「冷静たれ」と言う本書のメッセージは吉村氏の写実に徹した文体がふさわしい。
☆☆☆