アラン・グリーンスパンの9・11

 
同時テロ(日経1月26日)

 2001年9月11日。米国がかつてない攻撃を受けた日、私は空の上にいた。スイスからの出張の帰りである。「機長がお話ししたいことがあると言っています。世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだと、とのことです。」警護官がささやいた。
 スイスエアの機長はひどく緊張した表情だった。いまからチューリヒに引き返すという。カナダに着陸できないかと尋ねたが、だめだった。
 それから飛行場に着くまでの3時間半、窓の外を眺めながら、ひとりで頭をめぐらした。これはもっと広範囲のテロの計画の第一幕なのだろうか。妻は無事だろうか。米連邦準備理事会(FRB)の同僚たちは今頃危機への対応に追われているだろう。
 経済にとって一番大事なのは決済機能だ。これが破壊されれば、経済活動は石が坂道からころげ落ちるように低下してしまうだろう。攻撃が続けば、パニックで景気は一気に冷え込むのではないか。
 チューリヒで妻の無事を確かめ、ファーガソンFRB副議長と危機管理に必要なリストを確認し合った。翌朝早くホワイトハウスが手配してくれた米空軍の空中給油機に乗り込んだ。「通常なら無線の会話が飛び交っているのに、気味の悪い静けさです。」と操縦士。太平洋を渡る飛行機は他になかったのだ。
 特別許可が出て、貿易センタービルの上空を飛んだ。煙が上がり、廃墟になっているのが見える。私が何十年も働いたオフィスはそこからすぐ目と鼻の先だった。知り合いで犠牲になった人もいるだろう、と思った。

 夕食時に眼を通した新聞記事にあの日の記憶がよみがえって背筋が凍り、晩酌の酔いが醒める。夜のニュース番組が旅客機衝突を報ずるさなか、二番目の航空機が突入する瞬間が放映された。それから深夜まで二つの高層ビルが崩壊して消え去るまでを呆然と見ていた。

 世界経済を左右する地位にいる人物はそのとき機中にいて情報を遮断されていたのだ。6年前なら機中での電話・メールは困難だっただろう。当然ながらワシントンのFRBスタッフは状況分析と議長声明の文案をいくつも用意していただろうが、肝心の議長が発言しない限り経済に対する安定効果はうすい。確か9・11の直後にFRB議長の声明が合って経済活動にダメージは少ない事を強調していたと思う。事実大きな不況には至らなかったが、これがアフガンとその後のイラクへの攻撃による経済効果なのかはわからない。ともあれ米国を離れていたグリーンスパン氏が何を考え、どのような計算をしていたのかは大変興味深い。

 グリーンスパン氏の対応を見ると、厄災に遭遇した時の対応として、以下の行動をとったことになる。

  1. 状況の把握、指揮系統の確保(一刻も早い帰国)。
  2. 家族の安否の確認(個人的な不安の除去ー>仕事へ専念できる条件の確保)。
  3. 再び状況の確認(NYに飛ぶ必要は必ずしもなかったと思うが、現場を肉眼で確認することはdecision makingに重要だと思ったのだろう)。
  4. 現場の把握と共に、これから起きうる攻撃への備え(おそらく彼はもっと強力な攻撃があることも想定して行動していたに違いない)。
  5. FRB議長自身がテロのターゲットになりうる事も十分考えらたわけだ。機上でハイジャック・ビル突入の報告を聞いた時にはさぞかし恐ろしかっただろう。

 9・11ケネディ暗殺、アポロ11号の月面着陸と並んで記憶に残る映像だ。あの惨事に接したら自分がどう行動すべきか考えておいて損はない。

追記

 民間機は搭乗しているVIPについては配慮するものらしい。FRB議長クラスは別格としてもかつて私が同席したセリンジャー氏にも離陸前にフライトアテンダントが来て挨拶していた。そりゃーオランダをオリンピック銀メダルに導いた英雄ですからね。