沈黙の選択

 社会で生活を営む我々は仕事の上で他人と関わる以上は自分の意志を周囲の人たちに明確に伝えることがもとめられる。


 通常は発言によって意見伝えられる事が多い。


 これと共に沈黙によって伝えられる意志、もある。


 議会の演説に対する沈黙、一対一の対話における沈黙、は発言者に対しての不支持を意味すると受け取られることが多い。そうとられないためにも聞き手は何らかの意志を伝える事が求められ、発言者は聴衆の同意を引き出すために工夫を凝らす。


 学会の発表やセミナーに対する沈黙も不同意や黙殺という意志が込められる事がある。そうではない場合、聴衆は賛成の意を示したり、いいたいことは分かった、でも同意はできない、といった意志を示す必要がある。これはセミナーの合間や終わりに示される質問やコメントなどの発言で示される事が多い。もっと簡単には拍手やジョークに対する笑い、演者に目線を合わせ表情を伝える事などで意志を伝える事ができる。問いかけに対して何らかの反応を返すのは科学を実践するものの義務である。


不動の姿勢と無表情では意志は伝わらない。


 最近気になる事はサイエンスの場で聴衆としてうまく意志を示すことができない人が増えてきたのではないか、という危惧である。沈黙の殻に安住するのはたやすく、そこから踏み出す事は勇気を要する。しかし沈黙を保つことは一つの意志表示であることを忘れてはならない。そして沈黙をもって示した意志にたいして責任を負わなくてはならない事もあるのだ。


 こういう事を書くのはサイエンスの上での対話に限らず意志を示すべき時に意志を示さなければ沈黙の代償を負うこともある、と思うからだ。


 対話の手段は会話によるものだけではない。様々なコミュニケーションの手段を利用して大事な人との対話の線を絶やさない努力は人間関係を築く上で大事なことだ。この当たり前の事を、この日記を訪れる人には覚えておいてほしいのである。