共存の知恵

 夕食で交わした英国人との会話。彼は昼休みセッションをサボって姫路まで行ってきたらしい。途中で寄った山の上には神社とお寺が隣同士だったそうだ。


私:「日本では異なる宗教が平和的に共存することに何ら問題はないのですよ。」
英国人:「日本人はcompromizeが得意なのですね。」
私 「・・・」


会話はそこで途切れたのだが彼と私との間で認識に差があることの違和感が残った。


 神社とお寺は妥協しあっている訳ではないのだ。共に共存することなしでは日本の文化はあり得ない。一方で英国人にとって宗教とは唯一絶対な存在を目指す教義を掲げる行為なのだろう。


 思い返してみると欧米では宗教観が元になった争いはの昔から十字軍の昔から絶えたことがない。

 現代ではパレスチナにおけるイスラエルとアラブ人との泥沼の争いがあるしごく最近でもデンマークの新聞がイスラムの聖職者を風刺する漫画を掲載しモスリムの人々による世界的な抗議運動になっている。


 またアメリカでは特定の宗教観に基づく考え(創造説)が科学的な論考に基づく論説(進化論)を封殺しようとする動きが21世紀の今でも厳然としてあるのである。


 なぜ宗教にかかわる争いが絶えないのだろう?それは私からみれば「なぜ彼らはそこまで信念に忠実になれのだろうか」という問いに置き換えられる。その忠実さは単に「信念」という膨大なエネルギーを要する精神的行為を超えて、骨肉に刻み込まれた「存在そのもの」なのかもしれない。そうでなければ若者達が次々と爆弾を腹にまいて群衆に飛び込むという行為を理解できないのだ。


 もちろん「欧米人」と十把一絡げにする割り切り方が不適当で、穏当で公正な考えを持つ多くの人々に失礼に当たることは承知している。しかし個人を超えて国家・民族のレベルでのメンタリティーというものは存在し、人類の歴史を動かしてきたことは事実だ。


 欧米人は頑固なところがある。高層建築を規制して、日曜の労働を禁じて古き町並みを守ることに大変な努力を払ってきたことで守られてきた素晴らしい伝統がある。一方で至る所に見られる醜い落書き(グラフィティー、とも言うが)や不満たっぷりの都会の若者達を見れば歪みがたまっていることもわかる。


 科学者と話していて感じるのは優れた研究者であればあるほど良い話し手であり、話題は尽きない。そしてひたすら話し続けるばかりの人も多い。一方で良い聞き手、といえる人は以外と少ない。一方的に主張を述べて自分の権利を確保することに価値観が認められる社会に育ったせいなのだろう。


 一方で私たち日本人は信念に淡泊なところがあり、そのおかげで神社仏閣が共存共栄できる文化を熟成させてきたのだと思う。私はその淡泊さは良いことだと思う。それが最も基盤の部分で譲れない一線を保っている限りは、ですが。


 日本で育った私には、お寺で住職の話をきいたり、学校で校長先生の話を聞くといった経験を通じて人の話にゆったりと耳を傾けて、穏やかに意見を交わす間合い、というものを知っている。自分のスタイルとしてこのような態度は大事にしたいと思う。